ふだん使いの“薩摩の白もん”のこと(1)

実店舗の営業は残すところわずかとなりましたが、
現在、ふだん使いの”薩摩の白もん”を展示しています。

鹿児島・薩摩焼の窯元 沈壽官窯と手仕事フォーラムの協同で新たに生まれた、
白もん(白薩摩)による普段使いのうつわです。
白い無地の陶器ですが、独特の乳白色の陶土に透明感のある釉薬をまとい、
上品な輝きを放ちます。

わざわざ「ふだん使い」と謳っているのは、この器の独特な成り立ちにあります。

薩摩の「白もん」のあゆみ

薩摩の焼きものは、安土桃山時代の末期、豊臣秀吉がはじめた
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の退軍に合わせて、
薩摩藩によって現地から連行され、渡来した陶工たちによって始められました。

それまで焼きもの作りの文化が無かった薩摩に、朝鮮の先端技術がもたらされたのでした。

当初は、陶工らと共に朝鮮から持ち込まれた(盗んできた)陶土を用いて、
白い焼き物が焼かれていました。
材料などは全て朝鮮のもので、日本のものは”火だけ”=火ばかりなので
「火計手(ひばかりで)」と呼ばれます。

白い陶器の原料となる土は希少で、国内でも採れる産地は非常に限られますが、
彼らは土を求めて薩摩を渡り歩き、10年以上に渡る探索ののちに土を発見。
生まれた「白もん」は、柔らかい輝きを放つ乳白色でした。
そのうつわは、白磁とも従来の陶器とも異なるものです。
茶の湯に傾倒する各地の大名たちを虜にしたと言います。
薩摩藩は、その希少価値を高めるとともに、藩外への技術流出を防ぐため、
白もんを藩の御用として独占、一般に用いることを認めませんでした。

薩摩焼に転機が訪れたのは、江戸時代の末期です。
1867年に日本が初めて国として参加した、パリで開かれた万国博覧会。
薩摩藩は、このパリ万博に江戸幕府と同等の立場として参加し、
そこで展示した高さ2mもある白もんの大花瓶が脚光を浴びます。
「金爛手」と呼ばれる金の絵付けなど、絢爛豪華な装飾を施した
オブジェや花器などが海外で高い人気を呼び、空前の薩摩焼ブームが到来。
海外では「SATSUMA」という名で呼ばれ、世界各地に運ばれます。
日本では「京薩摩」や「横浜薩摩」と呼ばれる、
薩摩から素地だけを持ち込んで絵付けをする、
輸出向けの白い陶器が登場するほどでした。
この立役者となったのが、朝鮮からの渡来以来、
代々薩摩焼の職人を勤めてきた沈家の十二代で、
細工職人であると同時に、当時の薩摩藩窯の工長だった沈 壽官です。
沈 壽官は、苗代川(現在の美山)に沈壽官窯の前身となる
「玉光山陶器製造場」を設立(1875年)。現代に続く礎を築きます。
以来、沈家の当主は「沈 壽官」の名を襲名するようになりました。

さて、薩摩焼には「白もん」に対して「黒もん」があります。
「黒もん」は、鉄分が多く含まれる土を原料にした陶器で、
赤黒い土肌のごく素朴な焼きものです。
渡来した陶工たちが最初に作りはじめたのは、この黒もんでした。
甕などをはじめとした大物容器から、こね鉢やすり鉢といった調理器具、
碗や皿、酒器などといった食器にいたるまで幅広く、
大衆に用いられる雑器が作られました。
柳宗悦をはじめとした民藝同人たちは、1934年に苗代川を訪れます。
そこには、おそらく創始以来変わらぬ雰囲気のまま作り続けられている
たくさんの黒もんがあり、柳らは歓喜したと言います。
柳は、「苗代川の黒物」として、世に広く紹介しました。

山と積まれる黒物の置場で、昔ながらの名器を選び出す事は、さして難事ではない。
・・・それほど品物には古作品の俤(おもかげ)が残る。
・・・遷り変りが忙しく新古の闘いが激しい現代で、
このようなものに逢えるのは恵みとも思える。
一世紀前に消えていたとて何も不思議ではない。
それが現に、それも盛に作られているのであるから驚くべき現象である。
・・・黒物はどうしても薩摩焼の正系である。(柳宗悦「苗代川の黒物」より)

一方で、元来より「上手もの」として用いられた白もんに対しては、
高級品としてもてはやす風潮を強く否定し、
「苗代川の陶器では吾々は躊躇なく白物より黒物を挙げる」と述べています。

このように白もんは、民藝とは対極にある道を歩んできた焼きものです。
現代においても、沈壽官窯の作品は、薩摩焼が海外に広く展開した当時の流れを汲み、
緻密な細工や雅な絵付けが施された茶道具や置物などが中心。
なかなか、一般に手に届くものではありません。
食器なども作られていますが、どちらかと言えば「普段使い」というより特別な時、
いわゆる「ハレの日」に用いる器という言葉が適当かもしれません。

白もんは、そもそもふだん使いでは無く、
ふだん使いであったこともないのです。

そんな白もんを用いて、「ふだん使い」の器を作ることを沈壽官窯に持ちかけたのが、
手仕事フォーラムの発起人であり、もやい工藝、手しごとを創業した久野恵一でした。

「白もん」の普段使いの器を作る理由

苗代川は、渡来した陶工たちの集落がつくられ、焼きもの作りが行われた土地でした。
(昭和中期頃に「美山」という地名に変わりましたが、今も薩摩焼の窯元があります)
陶工たちは、白もん・黒もんを問わず焼きもの作りに精を出し、
藩は彼らに武士の身分を与え、保護した一方で、
彼らに朝鮮の習俗を守らせ、日本人との結婚の自由を与えませんでした。
柳宗悦らが当地を訪れた時、渡来からすでに300年以上が経っていたものの、
黒もんには、朝鮮から運ばれてきた創始以来の文化の香りが残っていました。
それは、この土地が歩んできた、特異な歴史の遺産そのものと言えるかもしれません。

残念ながら当時の黒もんは、現在では見る影もありません。
時代の流れ、生活環境の変化とともに失われたと言っていいでしょう。
しかし、かつての苗代川の焼きものが持っていた独特の文化が、
完全に失われてはいなかったことを、久野恵一は沈壽官窯の白もんに見出したのでした。

沈壽官窯の展示場には、比較的手頃な値段で買える、
いわゆる”窯もの”と呼ばれる製品が並んでいます。
湯呑やぐいのみから茶碗、皿まで、様々なものがありますが、
久野恵一はそれらの造形に、李朝(朝鮮)の陶器に通じたものがあることを見出しました。
さらに、作品ではなく、数物(同じ規格で多産される製品)を作ることができる
高い技術を持った職人がいることに着目します。

柳らが苗代川を訪れた際には、沈壽官窯にも立ち寄っていますが、
おそらく当時作られていた白もんには、ほとんど興味を持たなかったことでしょう。
しかし、薩摩焼の創始以来、苗代川の地で薩摩焼を守り続けてきた沈壽官窯は、
名実ともに、その文化を現代に繋いでいたということです。

各地で育まれてきた手仕事を、その土地の文化・歴史を生かしつつ
現代の暮らしに寄り添う形にして、未来へ繋いでいく。
久野恵一が45年間に渡って続けてきた、日本の手仕事をつなぐ活動です。
沈壽官窯で作られていた、白もんのうつわ。
これを発展させて、誰もが手にとって日常で使える
”ふだん使い”のうつわを作ることで、薩摩焼をより広く伝えたい、
さらには、日本の陶磁文化の源流とも言える薩摩焼の文化・歴史を
未来に残したいという思いに繋がっていくのです。